
Artist's commentary
守矢神社社報・早苗さんコラム5
守矢神社は、その分社が博麗神社に鎮座しています。神様のみたま、神霊は、松明やろうそくの火のように次々と分けることができて、火を分けたからといってその燃え方が半分になることはないように、その御神威は同等です。そのため、同じ神様をお祭りする神社が全国に散らばっています。特に多いのが稲荷神社、八幡神社で、稲荷神社は五穀豊穣・商売繁盛という生活に密着した神徳から、八幡神社は鎌倉期に全国に赴任した御家人たちが源氏・武家の守護神である八幡神を領地に勧請し、また中世に広まった神道的道徳規範ともいえる「三社託宣」の三柱、天照皇大神・八幡大菩薩・春日大明神(それぞれ「正直」「清浄」「慈悲」の教えをあらわす)の一に挙げられたことから全国に広がりました。稲荷社は多く京都の伏見稲荷大社、八幡社は宇佐の宇佐八幡宮(現在は宇佐神宮)、京都の石清水八幡宮、鎌倉の鶴岡八幡宮のいずれかから勧請されることが多かったようです。
そして、その霊や魂は分霊できるという考え方から、日本や中国には「生祠」というものが数多く建てられました。生前に「生き神様」「生き仏様」と呼ばれたくらいの偉人を死後にお祭りすることは多いですが、それを生きているうちからお祭りしたものです。現在では人を神として祭るとは不遜な、と思われるかもしれませんが、霊魂を分霊できるということは、当然それは生きている人間の霊魂にも適用されます。そして、日本人はみな何らかの神の子孫であり、全ての人には神性が備わっているので、人を神として祀る(正確には、その人のすぐれた徳性を神として祀る)ことはとくに奇異なことではありませんでした。そこで、人々のために身を尽くしたなど、きわめて優れた徳を持っている人の分霊を祠に祀ることは多く行われていました。現在でも、常人より抜きん出た人を「神様仏様○○様」とか「神!」と呼ぶことについてさして抵抗はないはずです。死後でなく生きているうちから祀られるのですから、周囲の人からものすごく感謝され慕われていた人であったのでしょう。皆様の近くにもそういった祠があると思います。
その生祠についても面白い話があるのですが、そのうちのひとつをお話しします。
江戸時代のこと。ある役人がその知行地で善政を施したので、その地の名主はその人の生祠を建ててお祀りすることにしました。
するとその後、その人は酒を飲んでもいないのにその顔に酒色が現れるようになりました。
怪しんで調べさせたところ、知行地の名主がその生祠に酒を供えてお祭りしていたことがわかりました。
それはそれでありがたいことではありましたが、もし登城の際に殿中で酒気が顔に現れてはよろしくないので、
酒をお供えすることを止めさせました。
生祠にお酒を供えたら、当の本人にもお酒が入ってしまった、というお話です。分霊していてもつながってるんですね。このお話の出典は江戸末期の人・宮負定雄が著した『奇談雑史』です。
ここで考えるのですが、稗田阿求さんはかの稗田阿礼の転生で、見聞きしたものを忘れない能力を引き継いでいて、ものすごい知識をもち、とても几帳面でしっかりしています。でも、時にひどくドジっ子になってしまう瞬間があるとの専らの噂です。そのギャップ萌えがどこから来るのか・・・そのヒントが上の話にあるような気がします。稗田阿礼は、その出身地である大和国添上郡稗田村(現・奈良県大和郡山市稗田町)に鎮座する売太(めた)神社をはじめとして、学問・文芸の神様として各地でお祭りされていますが、そちらの神社でお酒をお供えした場合、阿求さんにもその影響がいくのではないでしょうか・・・つまり、神社のお供えが影響して突如酔っ払ったりしてしまい、思わぬドジをやらかしてしまうのではないかと。神様として祀られるのは光栄なことですが、なかなかに大変です。
写真は、阿求さんにいろいろ外の世界の書物をお貸しがてらに紅茶をいただいたときのものです。この時も阿求さんは突然酔っ払ったようになってしまったので、紅茶にブランデーでも入れてヤン・ウェンリーリスペクトなのかと思いました。ちょうどどこかの社でお祭りがあったのかもしれません。
ちなみに、ある神社において、その境内・境外に本殿のほかに社を建てて鎮座している神社のことを摂社(せっしゃ)あるいは末社(まっしゃ)といいます。一般的には、本殿でお祭りする主祭神の親族など縁の深い神様を祀っている社、また親族でなくてもその神社と縁の深い重要な神様を祀っている社を摂社といい、そうでない神様を祀っている場合は末社と呼びます。博麗神社においては、守矢神社分社は末社にあたります。もともとは摂社・末社の語の使い分けはとくになされていませんでしたが、近代になって区別されるようになりました。また、本殿に主祭神とともにお祀りされている神様は相殿神(あいどののかみ)とお呼びします。
売太神社は、十世紀初めに養老律令の施行細則を集成編集して成った『延喜式』の巻九・十、全国の官社(旧暦二月に行われる豊作祈願のための「祈年祭」において朝廷が幣帛を頒布する神社)リストである「神名帳(じんみょうちょう)」に名が見える古社で、天宇受売命の子孫である猿女君の一派・稗田氏がその祖神・祖先を祀っていた社です。
それではまた。東風谷早苗でした。